arikitari

2001年2月11日
太宰治の人間失格を読みました。
誰かサンに影響されて今読書熱が急上昇中なのよ、笑 鬱の時にこれを読むって世の中的に定番な気がするけれど、とても面白かった、なんだか他の書物とはまた違ったレベルのものだった。

世の中にはいろいろな書物が在る、そしてその中の小説というものの中でもいろいろなレベルのものがある、デュマのような冒険小説、完全娯楽小説から吉本ばななみたいにぺたりと感覚に貼りついてくるもの、サルトルみたいに乾いていて遠いように思えて実は自分の中にあるもの。太宰のこの作品はどちらかというとこういう書物はなかったけれど、こういう音楽はあったような気がする、似たような、ということだけれど。

これは或る一人の男・・・・後ろについている表論文によれば太宰本人をモデルとした人物の話で、まるで大麻をやって正常に生きていかなければならないという悲惨な話だ。まぁ、これは読んだ人にはわかるが、ストレートすぎる例えなんだけど。笑 でも人の子というのは、出発地点というのはこういう状態なのだと思う。赤子というのはその皮膚感覚や味覚が大人に比べてものすごく敏感であるのと同じように、精神的、神経的なものもすごく敏感なのではないだろうか。味覚は刺激を与えつづけることによって麻痺し、鈍感になり、より強い刺激物を口にすることができるようになるが、その心理・精神状態も全く似たようなもので、自分の中で或る状況になると暴れだす自分の分身の手足をぽきりぽきりと折って抵抗させなくし、冷静でいらえるようになる、鈍感になるのではないだろうか。 たとえば人と話す上で必要な緊張に対する耐性、侮辱に対する耐性などすべて、それぞれ分身がいて、そいつらの手足をぱきぽきと折らねばならない。ただその分身が暴れる状況にならないとどいつの手足を折るべきかがわからないので、その状況を経験することが少なかったり、その状況に自分を置くことに対する耐性が無い場合別の分身を黙らせてから出ないとそいつを見つけ出して抵抗を防ぐことはできないのだ。 自己の分身の手足を折ることになにも抵抗の無いやつがいちはやく大人しく大人になり、苦しみも少ない。そういうコドモがいまは沢山いるような気がする。彼らは実際にしかるべき状況に身を置かなくても、発達した勘によってだいたい生きていく上でどの分身の手足を折っておけば生き易いかの検討がつくので、あらかじめ精神状態を整えておくことができる。ただ実際の経験で得られる分身の正確な情報との誤差があるので、その部分が非常に弱かったりするのだ。彼ら自身はもうすっかりそれで生きていける気になっているのに、ただひなたぼっこしてぼーっとすることに対する耐性がなくてそこで躓いて起き上がれなくなったりして、それが歪んでいるコドモ像というヤツなのだろうか。妙に大人びていて、生意気で、でも非常に脆くて危うい。自分を攻撃からまもることができ、反撃することができても、自分の攻撃から自分を守れなかったりするのだ。

って、これは全く私にも当てはまることなのだけれど。

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