きのうのにっき
2001年1月6日今日は相方にお正月プレゼントを買おうと思って、中華街の奥の古着屋サンに向かったのだけど、まるで買い占め(それもオイルショック級の)にあったような棚のすきようで、まぁ、プレゼントに古着っつーのもアレだしな、と自分を納得させながらClutchのチョーカーを自分用に買って引き上げた。
スカートもみかけたけど、なんかもうめんどくさくなって出た。
その行き道に、あやしげな公園の通りには同じ色合いの神社・・・?があって、そのさらに手前のアンティークショップの3階にあやしげなコーヒーショップがあることも発見した。さらに古着屋の手前のパチンコ屋の並びにはちょっとした中国茶が飲めそうなお店があることも発見したけれど、今日はすごく混んでいた。手ごろな価格の中国茶セットもあった。かわいい。あのあたりは何回も歩いたら楽しそうだなァ。
村上龍の「希望の国のエクソダス」には、インターネットによるメディアの消滅みたいなことも描かれていたのだけれど、それはまったくもって、いままで人々がメディアによってせきとめられていた数多くの情報源に、ダイレクトに接することができるよ
うになったからだと思う。人々はメディア=第三者によって加工された情報などではなく、本人に直接聞くことができるようになった。ウタダヒカルのWebページにしたってそうだ。(親の離婚云々のときのね。)しかもその第三者とやらが情報を改ざんする確率や可能性が極めて高いこともわかってきた。いままで触れていた情報が如何に彼らの手によって制限されたかも露呈してしまった。たとえばいままでは私が環境問題についてしらべたいと思ったなら、関連情報誌をあたると同時に図書館にかけこみ、地元の図書館でたりなくなればもっと蔵書の多いところへと辿って行くしかなかったが、だいたいが図書館にある情報はすでに歴史だった。今いったい何をやっているのかを知るには関連情報誌や機関紙を申し込んだり、(その申し込み先を得るにも一苦労をする)新聞がたまに気まぐれでコラムや社会2面に載せるのに頼るしかなかったのだ。パソコンをあげてネットにつなぎ、アドレスを打ちこめばリアルタイムでチェックできるというのに!
メディアはだんだんインターネットのできない人のためのものになりつつあるように思う。ワイドショーやニュースがそのままWebの内容を報道することも最近では少なくない。テレビが及ぼすといわれた悪影響(受動的な大量の情報の享受)は、もはや限られた世代についてのみ言及されるものとなりつつある。インターネットとテレビ等既存のメディアの違いはその強迫性にある、と思う。ワタシはつけたらひたすら喋りつづけるようなやかましい箱は要らないのだ。PCはネットからぶっちぎれば沈黙し、ワタシの命令を待つ。Webサイトにしたって日本のサイトでは強制的に任意のサイトに誘導するようなつくりのところはまだ少ない。欲しいものを得るためのもの、がインターネットで、すなわち欲しいものをきちんと言えなければインターネットは面白くない。
インターネットが使えない大人達は取り残されるのが怖くて使いこなす子供達(それも小学生くらいの)を化け物のような目で見るけれど、この海を楽しく泳げているのならば、テレビにかじりつくよりは数倍も健全なのではないかと思う。逆に多分今まで情報を受動的に受けることになれてしまった人々のなかには正直いってインターネットのどこが面白いのかわからないという人が出てくるだろうと思う。
スカートもみかけたけど、なんかもうめんどくさくなって出た。
その行き道に、あやしげな公園の通りには同じ色合いの神社・・・?があって、そのさらに手前のアンティークショップの3階にあやしげなコーヒーショップがあることも発見した。さらに古着屋の手前のパチンコ屋の並びにはちょっとした中国茶が飲めそうなお店があることも発見したけれど、今日はすごく混んでいた。手ごろな価格の中国茶セットもあった。かわいい。あのあたりは何回も歩いたら楽しそうだなァ。
村上龍の「希望の国のエクソダス」には、インターネットによるメディアの消滅みたいなことも描かれていたのだけれど、それはまったくもって、いままで人々がメディアによってせきとめられていた数多くの情報源に、ダイレクトに接することができるよ
うになったからだと思う。人々はメディア=第三者によって加工された情報などではなく、本人に直接聞くことができるようになった。ウタダヒカルのWebページにしたってそうだ。(親の離婚云々のときのね。)しかもその第三者とやらが情報を改ざんする確率や可能性が極めて高いこともわかってきた。いままで触れていた情報が如何に彼らの手によって制限されたかも露呈してしまった。たとえばいままでは私が環境問題についてしらべたいと思ったなら、関連情報誌をあたると同時に図書館にかけこみ、地元の図書館でたりなくなればもっと蔵書の多いところへと辿って行くしかなかったが、だいたいが図書館にある情報はすでに歴史だった。今いったい何をやっているのかを知るには関連情報誌や機関紙を申し込んだり、(その申し込み先を得るにも一苦労をする)新聞がたまに気まぐれでコラムや社会2面に載せるのに頼るしかなかったのだ。パソコンをあげてネットにつなぎ、アドレスを打ちこめばリアルタイムでチェックできるというのに!
メディアはだんだんインターネットのできない人のためのものになりつつあるように思う。ワイドショーやニュースがそのままWebの内容を報道することも最近では少なくない。テレビが及ぼすといわれた悪影響(受動的な大量の情報の享受)は、もはや限られた世代についてのみ言及されるものとなりつつある。インターネットとテレビ等既存のメディアの違いはその強迫性にある、と思う。ワタシはつけたらひたすら喋りつづけるようなやかましい箱は要らないのだ。PCはネットからぶっちぎれば沈黙し、ワタシの命令を待つ。Webサイトにしたって日本のサイトでは強制的に任意のサイトに誘導するようなつくりのところはまだ少ない。欲しいものを得るためのもの、がインターネットで、すなわち欲しいものをきちんと言えなければインターネットは面白くない。
インターネットが使えない大人達は取り残されるのが怖くて使いこなす子供達(それも小学生くらいの)を化け物のような目で見るけれど、この海を楽しく泳げているのならば、テレビにかじりつくよりは数倍も健全なのではないかと思う。逆に多分今まで情報を受動的に受けることになれてしまった人々のなかには正直いってインターネットのどこが面白いのかわからないという人が出てくるだろうと思う。
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